“最前線の兵士たち”が声を上げるとき ~教育の話をしよう~

学校

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自分が教師をしているからそう感じているだけかもしれないが、ここ最近、教育界の“膿”、をさらけ出し、批判するニュース、世論が加速している気がする。

 

ツイッター界隈だけでなく、本当にいろんな場所でこういう教育界の闇が取り上げられるようになった。

僕的には「いよいよきた」というワクワク感がとまらない。

 

Contents

学校の現実

 

この教育界大変革ムーブメントには大賛成だ。

達成された日にはもろ手を挙げて喜びたい。

が、その前にそもそも、なんで学校はこんな状態になっちゃったの?

という話から始めたい。

こんな状態、とはこんな状態。↓↓

 

・世界各国と比べて子どもの学力は落ちまくり

・子どもの精神年齢の低下

・全国的に子どもの不登校は増加一方

・教員のなり手がおらず、慢性的な人手不足

・教員は定額働かせホーダイ

・精神的な理由で病気休暇中の教員数は今年だけで5000人超

・管理職(校長・教頭)の希望者がいない

・再任用教師(60歳以上)なしでは学校が成り立たない

・大学は資金が回らず潰れまくり

・国の学術レベルの指標である研究論文数は著しく減少

・私立高校の約半分が経営難

・ご存じの通り、入試の男女差別は常態化

 

とまぁ、書いていて絶望的な気分になる。

が、現実の話だ。

なぜこうな悲惨なことになるまで放っておいたのか。

一教育人の釈明を聞いてもらおう。

 

学校という場の本質

 

当たり前だが学校は利益を求める場ではない。

教育をする場だ。

コミュニティの生活を根本から支える場だ。

まず、この基本的な理解から始まる。

学校が無くては地域の生活が成り立たない。

就労できる人材が育たず、治安が守られず、両親は共働きができず、社会が回らない。

1年間全国各地の学校という学校が閉鎖されたらどうなるか、その影響の大きさは簡単に想像できる。

ソフトバンクやユニクロやトヨタとは担っている役割や求めるものが根本的に違うのだ。

そしてまた、病院や警察署や介護施設、市役所などは広い意味で担っている役割を学校と同じにしていると言える。

生活になくてはならないサービスを安定的に供給すること、これが公的機関の最大にして最高の使命だ。

ポイントは、サービスを安定的に供給する必要がある、というところだ。

企業のように、去年は赤字だったけど今年は大幅な黒字だったぜ!

とか、

農家のように、夏は収穫が少ないけど冬は収穫が多くてたくさん収入がある!

というわけにはいかないのだ。

毎年毎月、平年並みのクオリティの教育を供給し続けることは何があっても守られなければならない。

そうでなければ、人々の生活が立ちゆかない。

学校は休めないのだ。

ここに学校という場の本質がある。

そして、公共機関の本質がある。

すなわち、サービスの供給の断絶を避けることを第一目的とする、という本質だ。

それらの機関・組織はその背後にお金を背負うのではなく、地域の生活全体を背負っていると言える。

だから、こういった場所が時代遅れなのは当たり前であるだけでなく、その時代錯誤性はその公的機関がきちんと目的を果たそうとしてきた証拠だと言える。

当然、時代は流れ、テクノロジーは進み、人の趣向は変わる。

利益を求める者たちはその流れに敏感だ。

お金は変化とともにあるのが常だからだ。

しかし、公共機関においては、変化とは第一目的を脅かすリスクに他ならない。

今あるサービスを拡大させることが最重要課題ではないのだ。

今もう成し遂げられているサービスを守ることが最重要課題なのだから。

学校という場は、変化を嫌う。

変化とは不安定で、不確実なものだからだ。

その変化がよりサービスの供給を増大させようが、結果的に供給を安定化させようが関係ない。

変化によって、サービスの供給の断裂もしくは、サービスレベルの低下がもたらされる可能性がわずかでもあるなら、学校は変化を選択しないのだ。

 

変化の芽の摘まれ方

 

もちろん、変化を訴える者もいる。

少なからずいる。

しかし、学校という場で変化を起こすのは非常に困難だ。

もし、何らかの変化、変革が提案されたとしよう。

校則の変更、労働条件の変更、学校行事の変更、なんでもいい。

その変化の芽はどう扱われるか。

それは、あらゆる「もし〇〇になったら、どうするの?」

というネガティブif攻撃を受けることになる。

もし、生徒の規律が乱れたら?

もし、保護者からクレームが来たら?

もし、ケガをしたら?

もし、授業に支障をきたしたら?

もし、部活の大会の予定とかぶったら?

もし、教員の残業時間が増えすぎて教育委員会の指導を受けるはめになったら?

もし、もし、もし、

この、もし、は元来は学校の第一の目的から生まれた危機管理思考の産物だと思う。

あくまでも、安定と確実性を重んじる学校の本質の副作用だと思う。

そして、「生徒のため、教育のため」という殺し文句はここに起源があるような気がしている。

しかし、リスクを取らないことが最大のリスクだ、という言葉もあるように、学校はあまりにも変化を忌避しすぎた。

 

広がり続ける世間とのギャップ

 

変化をしない、というのはリスクをとらないことだ。

リスクを取らないということは、勝負をしないということだ。

麻雀で言うと、ずっと「オりている」状態だ。

麻雀をやったことのある人ならわかるだろうが、ずっとオりていれば大損はしない。

が、一局一局、点数は減っていく。

詳しいことは言わないが、そういうルールになっているのだ。

勝負しない奴は、徐々にではあるが必ず負けていく。

これは、真理だと思う。

学校においても例外ではない。

減っていく点数は、世間とのギャップということができる。

変化を拒絶する姿勢は、年々、世の中の常識とのズレという代償を生む。

「学校の常識、世間の非常識」というのは、何も学校を揶揄する言葉ではない。

学校の本質を突いたものだと僕は思う。

さて、この辺から本題に入る(前置き長い)

 

最前線で声を上げる者たち

 

世間と学校のギャップは広がり続けた。

変化嫌いという副作用はもちろんのこと、教育界の慢性的かつ決定的な資金不足もそれに拍車をかけた。

学校が時代遅れであることはもはや世間の常識で、生徒は学校と学校外の生活に確かな断絶を感じている。

時代が流れ、テクノロジーが進化し、世間の趣向が変わると、当然、社会から学校へ求められるニーズは変わってくる。

いくら学校が変化を嫌うと言っても、求められているニーズを無視するわけにはいかない。

それを無視することは、教育サービスの断絶とほぼ意味を同じにしてしまうからだ。

「不十分だ」と言われるものを与え続けるわけにはいかない。

15年ほど前から、社会に突き動かされる形で、圧倒的に後手を引く形で、学校はニーズによって変形していった。

例えば、かつてクラブ活動に端を発した部活動は、今や進学や果ては生徒のスポーツ人生に欠かせないアスリート養成機関となった。

また、不登校生徒への対応もこれほどの手厚さを求められたことはなかったし、かつては“一風変わった子”だった生徒は発達障害生徒としてあらゆるシーンでの配慮が義務のようになった。

専門教科やスポーツのコーチングはもちろん、カウンセリングや危機対応、食育から防災研修、ツアーコンダクターから指揮者まで教師はカバーせねばならず、ここに世界に類を見ない何でも屋が誕生した。

繰り返すがこれらの変化は、すべて学校の内部から起こったのではない。

学校は変化を嫌う。

あくまでも、社会のニーズがこれらの変化を強制したのだ。

社会のニーズを無視し続け、本当にシーラカンスのように変化を拒絶していれば学校は今のような危機には直面しなかっただろう。(現実的ではないが)

今、学校に起こっているのは、

①変化を拒み続けてきた学校と世間とのギャップがあまりにも大きくなりすぎ、

②圧倒的に後手をひく形で、つまり、何の対策も工夫もない(金もない)状態で

③社会のニーズによって無理な形に変形させられている

ということだ。

その結果、何が起こったか、それを上記の記事が語っている。

つまり、教師が潰れだした、のだ。

それも、個人的にではなく、組織的にシステムとして潰れだしたのだ。

世間が時代遅れの学校に自分たちの最新のニーズをぶつけるのは、残酷なようだが当然だ。

学校は人々の生活に根差しているのであり、学校を含めた公的機関には市民のニーズに応える責任が絶対にある。

問題は、これまで変化を拒否し続け、今の今まで世間とのギャップを修正しようとしてこなかった、そしてその資金を惜しんできた学校や国にある。

今学校は、テクノロジーによって濁流のごとく流れる世間の常識や感覚に翻弄されている。

そのニーズに応えようとすればするほど、準備の整っていない旧態依然のシステムは疲弊していく。

最も苦しんでいるのは、そのニーズの矢面に立つ教員たちである。

保護者、生徒、地域住民、と日々接触する担任や部活の顧問。

彼らは、そのニーズをまともに受け、断ることもできず、日々悪戦苦闘している。

日々変化する社会のニーズに応えるだけの準備をしてこなかったツケを彼らが自己犠牲という形で支払っているのだ。

不足している準備とは、法整備、人員確保、環境のアップデート、感覚のアップデート、専門職の分業化、など本当に様々である。

それらの不足を、命と自由を引き換えに彼らは補っている。

しかし、それには限度があった。

そして今がその限界点である。

彼らは、もうこれ以上犠牲にするものを失ってしまった。

大げさではなく、これ以上の犠牲は、すなわち身体的、あるいは精神的な死を意味するようになったからだ。

 

これまで教育改革は何度か叫ばれてきた。

しかし、それは大学教授や教育研究家や文科省や財務省など、現場から遠く離れたところから上がる声だった。

そこには、教育界がやばい!という危機感は薄く、経費削減や研究データの証明などの動機もあった。

今、起こりつつあるムーブメントは、最前線の教師が声を上げて始まった。

これまで自己犠牲を払い続け、肌感覚として「もうダメだ!」と悟った者たちから声が上がっているのだ。

知っているだろうか。

学校が、“戦場”と呼ばれていることを。

これは比喩である。

しかし、一概に比喩であるとも言い切れない現状がある。

最前線の兵士の犠牲なくして成り立たない教育。

これを戦争といっても過言ではない。

なぜなら、彼らが犠牲にしているものは、命であり自由であり家族であって、本当の戦場で犠牲にしているものと大差ないからである。

 

これからの話

 

これから学校はどうなっていくか。

どうなっていくべきか。

今始まりつつあるムーブメントはどこに着地し、何をもたらすか。

真剣に考えたけれど、正直まったくわからない。

でも、教員不足、という問題は、教育界の抱える問題の緊急性が歴史上最も深刻な状況であることを示唆していると思う。

それをどう改善するか。

それには思い切った選択が必要なんだろうと思う。

場合によっては、学校の伝統をぶち壊したり、社会のニーズを100%は保証しないという結果になる。

しかし、教師と生徒が日々元気で希望を持ち、楽しむことに増して重要なことはない。

難しいことは考えず、ただこの一点をもってこの難局を乗り越えるよう決意すべきだと思う。

そういう観点から自分を一教師として眺めたとき、新しい発見がある。

何度も言うが、学校という場は変化を嫌う。

変化をする者には厳しい風が吹く。

それは痛いほどわかる。

しかし、本当の本当の本当にこの国の教育を考えたとき、生徒と教師が元気に楽しく学ぶ道こそ、最も希望に満ちた道だと信じている。

 

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