「環境の力」>>>>>>>>「努力」 を証明してみる

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どうも、ダイチです。

今日は、ある宗教をKOしてやろうと意気込んでいます。

私の大嫌いな宗教です。

その名も「頑張れば報われる教」

うーむ。嫌いだ。

これは、たまに名を変えることもあります。

「努力こそが成功へのカギだ教」

「頑張らないやつはダメだ教」

これらもまた、嫌い。

今日は、これらの宗教を歴史学・人類史学をひっぱり出してきてコテンパンにしてやろうと思います。

 

Contents

私が「頑張れば報われる教」が嫌いな理由

 

嫌い嫌いって言ったからには、一応、説明責任があると思うので。

 

①「頑張る」という状態が、理想的な状態ではないと思うから。

 

「頑張る」、というのは言い換えると、「嫌だけど」、「辛いけど」、「しんどいけど」、「やる」です。

人が最も効率よく学んだり、パフォーマンスをしたりする状態は、「ワクワクしている状態」だということがわかっています。

「好奇心」を原動力とした行動が、最も創造的で生産的である、と現代の行動心理学が結論付けています。

 

②大多数の1流の人は「頑張って」いないから。

 

ん?と思われるでしょう。しかし、これも事実です。

例えば、一流企業の社長にしても、アスリートにしても、教員という仕事にしても。

1流が1流なのは、自分のやっていることが「好き」だから、です。

1流歌手の人で音楽が嫌いで頑張って歌手になった、なんて人がいると思いますか?全部同じです。

周りの目から見ると「頑張って」いても、本人からすると、「努力」ではなくて「実験」だったり「娯楽」だったり、「趣味」だったり、「日課」だったりするわけです。

はっきり言って、「頑張っている」という感覚がある時点で、その道で1流になる可能性はとても低いと思います。

僕は野球部の顧問ですが、野球が3度の飯より好きだという先生には、勝てる気がしません。

僕が「頑張って」野球の指導法を勉強をしている中、その人は嬉々として野球の指導法を勉強しているんですから。

「好きなことでしか、1流になれない」は、もはや常識といっていいでしょう。

 

③「頑張る」よりも環境を変える方が理にかなっているから。

 

これから述べるように「努力」の力は侮れませんが、「環境の力」には遠く及びません。

幸いにも我々は奴隷ではないため、環境を選び取る自由があります。

「頑張る」よりも環境を変えることを最優先とすべきなのです。

 

具体的に環境を変えるとは、

 

ⅰ 好奇心を原動力とする行動を増やしたり、促したりする工夫をすること

ⅱ 「頑張る」対象を自分の好きなことに変換すること

 

などを指します。

 

「環境の力」>>>>>>>「努力」の証明

 

では、人間の「努力」に対して、「環境の力」がどれほどすさまじいか、その例を挙げようと思います。

今回は、歴史、文化人類学の力を借ります(^^)

ちなみに、こちらの書籍を参考にしています。

 

 

マオリ族とモリオリ族の話

 

1835年、ニュージーランドの東800キロに位置するチャタム諸島という島で、島民のモリオリ族が船で来襲したマオリ族に大虐殺されました。

その時来襲したマオリ族の数はたった500人。

モリオリ族は、その2倍以上の数であったのにもかかわらず、虐殺され滅びてしまうのです。

なぜか?

それは、マオリ族の方が優れた武器を持ち、組織としても統一され、強力な指導者を擁していたからです。

しかし、またここで一つ疑問が湧き起こります。

元々、マオリ族もモリオリ族も同じポリネシアの農耕民族だったのに、なぜ、そのような差が生まれたのか、という疑問です。

今から約1000年前、ポリネシアの農耕民たちは、新天地を求め、船で大海に乗り出しました。

たどり着いた場所は、ニュージーランドの北側でした。

そこに住み着いたのが、マオリ族でした。

そして、800キロ東のチャタム諸島にたどり着いた民族が、モリオリ族です。

ですから、二つの民族も元をたどれば全く同じポリネシアンです。

知力、体力、骨格、言語、病原菌への耐性、などに全く差はなかったのです。

しかし、1835年時点では、その差は明らかでした。

組織として機能せず、こん棒などの初歩的な武器しか持ち合わせていないモリオリ族と、ほとんど軍として機能し、殺傷能力の高い武器を装備していたマオリ族。

その差を生み出したものこそ、「環境」なのです。

たった800キロしか離れていないニュージーランドとチャタム諸島の環境の差が1835年の結果をもたらしたのです。

 

チャタム諸島の場合

チャタム諸島は寒冷な気候で、なかなか農作物が育ちません。

かわりに、アザラシや魚介類や海鳥などの動物が豊富でした。

モリオリ族たちは、狩猟採集民として自分たちの生計をたてました。

獲物を求め、移住を繰り返したのです。

移住を繰り返すということは、たくさんの荷物を持たないということです。

当然、食料なども貯蔵はあまりできません。

その日食べる分だけを捕って暮らしていました。

獲物は、たくさんいたので狩りに困ることもなかったと考えられています。

 

ニュージーランドの場合

 

温暖な気候で農作物が育ちやすいです。

一方で、他部族とのなわばりの関係やそもそも食用としてふさわしい大型動物に恵まれないといった事情で、狩猟採集には向いていませんでした。

マオリ族は、自分たちの暮らしを農耕へ求めました。

農耕のために村を作り、定住しました。

定住は、食料の貯蔵を可能にしました。

すると、食料の貯蔵量に差が生まれ、その差はそのまま身分の差へとつながったのです。

組織の誕生です。

また、貯蔵食料は、食料生産に関わらない職業人を養う糧ともなりました。

貯蔵食料のある社会では、村長、武器屋、祈祷師、指導者などの専門職が存在できたのです。

貯蔵食料のない狩猟採集民の場合は、こうはいきません。

各自が、その日食べるものを自分で調達しなければならないからです。

専門職が許されない社会なのです。

マオリ族には、さまざまな専門職が生まれました。

彼らは、自分の仕事に従事することで、食料生産を自分ですることなく、貯蔵食料を配分してもらえました。

こうして、二つの民族の間には、大きな文明的な差が生まれていったのです

1835年の大虐殺は、マオリ族が頑張ったから起こったのではありません。

まして、モリオリ族が頑張らなかったから起こったのでもありません。

二つの民族に生物的な差があったから起こったのでもありません。

寒冷なチャタム諸島に、アザラシや海鳥など捕獲しやすい動物がいたこと。

温帯なニュージーランドに、大型哺乳類がいなかったこと。

究極的には、以上の二つが原因で起こったのです。

環境の影響力というのは、人間の能力や意志などをいとも簡単に超越します。

この例から、「環境の力」のすさまじさを推し量ることができるのではないでしょうか。

 

まとめ

 

モリオリ族が仮に、めっちゃ努力していたとしても、1835年の結果は変わらなかったでしょう。

モリオリ族が仮に、マオリ族よりも生物学的に優位な点を持っていたとしても、かれらがチャタム諸島にたどりついた限り、1835年の結果は変わらなかったでしょう。

何度でも言いますが、「環境の力」は、すさまじいんです。

到底、「努力」などでは太刀打ちできないものなんです。

もちろん、「努力」が必要ないかというと、そんなことはありません。

「努力」だって立派な力です。

しかし、逆立ちしても「環境の力」には勝てません。

だからこそ、僕らに求められているのは、闇雲に妄信的に頑張ることではなくて、冷静に環境を変えること、なのです。

頑張っているというのは、理想的ではないのです。環境の力の恩恵を受けられていない状態なのです。

 

 

さぁ、何かに行き詰っているそこのあなた!

とりあえず、環境を変えてみませんか???

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