どうも、ダイチです。
モヤモヤっとしている話題に触れます。
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強者の理論
SNSが普及したことで、多くの努力が可視化された時代になったんだなと実感する。何かに秀でるために、何をすればいいかが誰でもわかるようになった。秀でている人は「やった人」だし、秀でてない人は「やらなかった人」で、つまり何かを諦める理由に「自分には才能がないから」とは言えなくなった。
— たられば (@tarareba722) 2018年12月11日
圧倒的努力は必ず報われます。報われないのはそれが圧倒的努力ではないからです。
— 見城 徹 (@kenjo_toru1229) 2018年12月11日
・やれば何でもできる、できないのはやっていないからだ
・成功しないのは努力が足りないからだ
・泣き言を言わずに力で証明しろ
・為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり
これらの考えを僕は、ひろさちやさんの言葉を借りて強者の理論と呼んでいる。
こういう考えを良しとしている人も多いと思う。
現に僕もつい数年前まで強者の理論信者だった。
でも今日は、声を大にしてそれにストップ!と言いたい
Loserはいない、いるのはUnlucky personだ
思わず連続ツイートしたのがこれ。
この考え方は危険やし、怖いもんやと思う。人を成功者と敗者に分別し、”敗因”を努力不足に集約する。運命のサイコロを完全に無視し、全ての成功者にふんぞり返ることを許容するエゴイスティックな宗教。
強者にしか許されない宗教であり、弱者は断固受け入れてはならない宗教。 https://t.co/rJGUAo1V41
— ダイチ (@0Save) 2018年12月12日
しましまぁ、世の中の大半の人間は、自分のことを弱者だとは思っていない。
強者ではないが、少なくとも強者予備軍であると勘違いし、強者の理論に賛同する。
その行為がまさに強者によって計算され、真の強者の栄養になっていることを知らない。
雑魚は幻想を抱かされ、強者の栄養となる。
— ダイチ (@0Save) 2018年12月12日
だからもう、自分のことを弱者だと決めていればいいのにな。自分は成功者でないし、大した才能もない。歴史に名を残したり、月に行くようなことは間違ってもない。でも、自分が喰い物にされる思想の片棒を担いだりはしない。せめて、強者の理論の反対を行く。世間の常識に抗う。
— ダイチ (@0Save) 2018年12月12日
強者の理論は一見筋が通っている。
また、人を奮起させ、行動へと駆り立てる。
今の世の中にフィットしているようにも感じられる。
でも、その裏側にある恐ろしさは、到底弱者には受け入れることのできないものだ。
ニーチェが「神は死んだ」と言った以前、そして人々は神の創造物だと信じられていた時代、Loser(敗者)はいなかった。
人生に成功はあれど、幸せはあれど、勝ち負けはなく人生に失敗したものは皆unlucky(不運な者)と呼ばれた。
人々は人智を超えた存在を信じ、目に見えない畏敬の力の影響を信じた。
成功の原因は、努力だけではなかった。
人が人生の全てをコントロールすることなど到底できないと考えていたし、それゆえ、人生の失敗の原因の全てが当の本人にあるとは思いもよらなかった。
病気、天災、縁、誕生、死滅、運命のダイスは常に自分たちの力の及ばない所で振られ、人々はそれを圧倒的な努力でどうこうできるとは信じなかった。
実に賢明だったと思う。
時は流れ、人間は神に近づいた。
病気を抑え、DNAを操作し、一瞬で地球の裏側の人々と繋がるようになった。
人生の意味は神から与えられるものではなく、自ら作り上げていくものとなった。
聖書や仏典の中に人生のヒントを求める代わりに、世界一周の旅に出て、あるいはSNSで生き方のモデルを探し“本当の自分”を見つけようとした。
人間こそが主役であり、重要な配役につくために必要なのは、とにかく自分の才能と選択と努力であると信じるようになった。
いつしか、役の争いに負けたものはunluckyではなくLoser(負け犬)となった。
もう改めて説明するまでもないが、やれば何でもできる、と謳う強者の理論に賛同するということは、暗に、成功しない奴はダメな奴、という理論の片棒を担いでいることになる。
それだけでなく、成功した人は皆すべからく並々ならぬ努力をしてきた人、という理論を支持していることにもなる。
もっとリアルに言おう。
強者の理論は、敗因を100%その人物に帰することによって、その人物が人として持つ尊厳を根こそぎ奪う。
運やシステムの要素に考えを至らせることなく、その人物は本当に自分はダメな奴だと思うようになる。
そうして、死んでいく。
また、強者の理論は、強者の存在を輝かせる。
その成功が運によるものだろうが、まわりのお膳立てによるものだろうが、数々の犠牲を支払っていようが、そんなことは関係ない。
成功した奴は、すごいんだ。強いんだ。勤勉なんだ。優れているんだ。
そういうことになる。
強者をふんぞり返らせる大義名分をみんなで共有していることになる。
それが、強者の理論、やればできるできないやつはやってないやつ、の考え方だ。
弱者であることの自覚
強者の理論は、強者のためのものだ。
これを忘れたらいけない。
弱者が強者の理論を支持した時、強者はさらに強力に弱者はさらに弱くなる。
一時を境にして僕は、有名人、そしてインフルエンサーと呼ばれる人のフォローをすべて外した。
洗脳されそうになったからだ。
時間があれば何でもできると本気で思っていたし、自分が成功しないのは全て自分のせいだと思っていた。
なんと驚くことに自分のことを弱者ではなく、強者予備軍だと思っていたのだ。
自分のおめでたさにあきれ返る。噴飯ものだ。
強者になるまで強者の理論は支持してはいけない。
強者の理論を支持したところで、強者にはなれない。
それどころか、強者の存在をより確固たるものにし、自らの失敗に大きく傷つかなければならない羽目になる。
世の中の99%の人は弱者だ。
まず、自分を弱者だと認めること。
そうする方が生きやすいのではなかろうか、という気がしている。
自分を信じることや、努力をすることが悪いわけでは決してない。
しかし、受け取る結果のその原因の全てが自分にあると考えるのは危険だし傲慢だということが言いたいだけだ。
ポジティブ心理学の研究結果に、「超越的な存在、畏敬の神秘」そのようなものを信じている人の幸福度合いはそうでない人に比べて高い、というものがある。
もしかすると、そういったコントロールの不能性は自らを守るバリヤーとして働いているのかもしれない。
最後に
科学が進歩し神の存在が消えかかった国々(先進国)は、若者の自殺が大変多い。
それには、強者の理論が悪さをしている可能性が高いと、僕は思う。
仕事柄やってもやっても、頑張っても頑張っても、“成功”しない人間を僕は山ほど知っている。
でも彼ら彼女らの頑張りを前にして、「できないのは君の何かが足りないからだ」とは言えない。
いや、言ってはいけない。
世の中には、あらゆるレベルのあらゆる種類のハンディが存在する。
それを前にして、強者の理論は何を語るのか、僕には想像もつかない。
僕たちの握っている人生の舵棒は利きが悪い。
波や風や、マストやたくさんものによって船は左右されている。
そんな風に考えて、しなやかにたくさん失敗したい。
今の僕はそういう感じです。
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なんとなく詩
題名:ひょっとこ
ひょっとこがひょっとこを蹴る
自分が正義だと言わんばかりに
ひょっとこがひょっとこを笑う
自分の面(つら)は棚へ上げておいて
ひょっとこがひょっとこを殺す
自分は鬼になったつもりで
ひょっとこが鬼を祭る
ほんとは鬼が怖いのに
ひょっとこは芸を捨てて刀を研ぐ
ひょっとこのくせに
村からひょっとこが消えたある日
山の上で鬼が笑う
ひょっとこって何の例えですか?
[…] 目を覚ませ!それは強者の理論で君は弱者だ […]