「頑張れば救われる教」から脱出しませんか?

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こんばんは。ダイチです。

ここ数年間でたくさんの自己啓発本を読みました。

イケダハヤトさんやはあちゅうさんをはじめとする先鋭文章家のブログも漁るように読みました。

自分の理想とする生き方を自問自答しました。

自分の才能について色々と考えました。

そうしているうちに、もともとあった自分の“常識”が崩れていきました。

その最たるものを、今日は書きます。

僕は、つい最近までこう思っていました。

『頑張ることは素晴らしいことだ』 『頑張っていれば、その姿を誰かが見てくれる』 『頑張れば、いつか救われる』 と。

みなさんもそう思ってはいないですか?

ですが、今はこの考え方についてかなり懐疑的です。

というより、この考え方は、もう時代遅れだと思っています。今日はその理由を書こうと思います。

 

Contents

「頑張れ」と言い続けた日々

 

僕はかつて「頑張れば救われる教」の教師でした。

今は不用意に使わなくなりましたが、それでも「頑張れ」という言葉を、普通の人の10倍は使っています(たぶん)。

テストで点が取れない子に「頑張れ」 部活でレギュラーになれない子に「頑張れ」 歌が苦手な子に「頑張れ」 宿題してこない生徒を放課後居残らせて、宿題を「頑張れ」 学校に来れなくなた生徒にも「頑張れ」

頑張れ、頑張れ、頑張れ・・・・・・ 本当にかわいそうなことしたよなぁ、と思います。

今なら、絶対に「頑張れ」だなんて軽々しく言えません。

「頑張れ」と言うのって、具体的なアドバイスよりもだいぶ簡単なんですよ。

専門的な知識がいらないので。

ですが、正直、「頑張れ」と言われて状況が改善される子はほとんどいなかったですね。

絶対に具体的なアドバイスの方が有効なんですよ。その方がモチベーションも上がるし。

ですから、教育者の「頑張れ」は、「自分には専門的なアドバイスができません、お手上げです。でも、見放したとは思わないで!」とイコールです。

すみません、ちょっと話がそれました。 さてみなさん、一緒に考えませんか? 【頑張ることって本当に「善」なの?】 ってこと。

 

頑張ることのデメリット

 

スタートラインから遅れている

頑張ることにデメリットがあると言うと、それだけで非難の声をあげる人がいそうですが、実際、頑張ることで失うものはけっこうあります。

まず何といっても、自分の真の才能を見つけることができなくなってしまう、もしくは、見つけるのに大変時間がかかってしまい、時間をかけて磨くことができなくなってしまう、ということがあります。

頑張って〇〇する、という時点で、その〇〇が好きで好きでたまらないみなさんには、負けているんですよ。

 

スタートラインに立った時点で、もうとんでもない差がついているんです。

〇〇が好きな人は、頑張るっていう感覚じゃないですから。

頑張るっていうのは、エネルギーを消費して行う行為です。

限界があります。でもね、好きなことやるのって限界がないんですよ。

ワクワクして逆にエネルギーが溜まります。

どっちがゴールに早くたどり着けると思います?

比べるまでもないですよね。

「好き」っていうのは、それだけでとんでもない才能なんです。

「好きこそものの上手なれ」って言葉がありますけど、これは真実ですね。

一流の人はみんな同じこと言ってます。

イチローも羽生善治も孫正義も。

「才能とは、絶えない情熱である」的なことをね。

情熱って何かって、元をたどれば「好き」以外の何物でもないんです。

大事なことなのでもう一度言います。

「頑張っている」という感覚を持ってしまっている以上、残念ながら、あなたはその分野で一流にはなれません。運が良くて2流。普通にいけば三流。下手すると戦力外です。

どうせなら、自分の才能を見つけ、磨き、誇りある人生を送りたくないですか?

ならば、やることは決まっています。

「頑張る」分野をきれいさっぱり投げ捨てて、「好き」を追求することです。

「頑張る」にこだわっていると、一生自分の才能を知らずに死んじゃうかもしれませんよ?

今の時代は、得意なことだけをガンガンやって、何足ものわらじを履く者が有利です。

 

関連記事⇒⇒新・生存戦略 ~「多動力」から~

 

心の余裕をなくす

 

「頑張る」デメリットはまだあります。

それは、当たり前ですが「頑張る」ことによって、精神的に苦痛を味わうということです。

毎日毎日、歯を食いしばってまで何かに専念し続けるということは、普通の人間にはできないことです。

もし仮にできるとすれば、それは心に相当に負担をかけていることになります。

それを美談として語る人もいますが、僕はたぶんそういう人とは仲良くなれません。

心に余裕がなくなるということをみんな軽視しすぎです。

心の余裕がないことは、財布に余裕がないことの5万倍リスキーだと僕は思っています。

心の余裕がないということは、創造性が極端に失われ、モチベーションは下がり、人に優しくできなくなり、ユーモアが枯渇し、笑顔と自信は消え、好奇心を忘れ、幸せも感じにくくなり、下手すると病気になる、ということなんですよ?

こんな状態になってまで頑張る必要がどこにあるのかちょっと僕にはわかりません。

よく聞く「家族のために」とか「お金のために」とかって、この原理を知っていればいかにアホなセリフかがよくわかります。

こんな状態でお金稼いでも意味ないですよ。

こんな状態では家族と良質なコミュニケーションとれないですよ。

僕たちは機械ではないです。

僕たちの人生の満足度を決めているのは結局、「心」ですよね。

その心を痛めつけるって何なんですか?アプリ内の課金アイテムをゲットするためにiPhone売りにいくようなものですよね。本末転倒です。

 

それでも頑張る人へ

 

もちろん、頑張ることのすべてを批判しているわけではありません。

「頑張る」というのは幅の広い言葉ですから。

人生において修行の時期、辛いことを経験しつつ進むべき時というのは確かにあります。

そして、それが人間を成長させることもあります。

しかし、「頑張る」という状態は、少なくともトンネルの中です。

これは間違いないことです。

そのトンネルの先に自分の目指す光があるなら、「頑張る」ことは人を成長させる、あるべき試練なのでしょう。

しかし、そのトンネルの先に光が見えないなら、道がないことがわかっているなら、あえてそのまま進む必要はありません。

トンネルの中にいるということは、大変リスクの高い状況なのです。

トンネルの中にいる人は、そのことを肝に銘じ、自分の意志と決意のもと「頑張る」べきなのです。

絶対に「頑張らされている」という状態を受け入れるべきではありません。

人に言われているから、仕事辞めにくいから、上司が怖いから、家族に文句言われるから。

自分の決意なくそういったネガティブな理由だけでトンネルの中にいる人は人生を無駄にしつつある人です。

目覚めましょう。立ち上がりましょう。

あなたにはまだ見ぬ才能が必ずある。

光が当たる場所が必ずあるんです。

すべては自分次第なんですから。

 

 

天皇陛下のために死ぬべきだ。

白人は他の人種よりも知能・道徳の面で秀でている人種だ。

女は家で家事・子育てをすればいいのだ。

 

今聞くと、荒唐無稽な考え方です。

現代人なら読むだけで怒りを感じる人もいるでしょう。

でも、ほんの数十年前まで一般的に言われ、信じられていた考えです。

当時の人は支持する、しないなど関係なく、受け入れることに何の抵抗もなかったことでしょう。

「頑張れば救われる教」のみなさん、僕と賭けをしませんか?

<賭けの内容> 『頑張ることは素晴らしいことだ』 『頑張っていれば、その姿を誰かが見てくれる』 『頑張れば、いつか救われる』 この考えが、20年後の人にどう受け止められるか。

A:「は?マジかよ。昔の人は何考えてたんだ?意味わからん」

B:「そうそう。その通り。俺も頑張らなくちゃ」

僕はAにしますね(^_-)-☆

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