『教育論』~僕らはみな才能ある天才として生まれた~ 【絶対ためになるTEDプレゼン③】

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どうも。ダイチです。

happiness project では、「絶対ためになるTEDプレゼンシリーズ」として、みんさんにオススメのプレゼンテーション動画を厳選して紹介しています。(TEDとは?)

 

目的は一つ。

Contents

みんなで「世界を変えるアイデア」を共有すること!

 

 

第三弾『Do school kill creativity?』~学校教育は創造性を殺している?~

 

今日は本職の教育に関わる記事なのでちょっと気合入ってます。

さて早速、僕の人生を変えたプレゼンを紹介します。

プレゼンのタイトルは『Do school kill creativity?』(学校教育は創造性を殺している?)です。

教育に携わる人もそうでない人にも、とにかくみんなに観てもらいたいです。

 

すごすぎません!?

これがもう10年以上前のプレゼンですからね・・・

国語の教師として教壇に立って6年。

最初から感じていた現場への違和感。

このやり方は、間違っているんじゃないかという肌感覚。

そんなモヤモヤを僕の代わりに一刀両断です。

快刀乱麻!!ってこのことなのかって感じw

この人の知性の深み、底が知れません。脱帽です。

もういい加減やめませんか?

時代遅れの“教育”を。

 

教育の闇 ~教科のヒエラルキー~

 

ここからは僕の教育論を語らしてもらいます。

※常体で書かしてもらいます。

 

教科の間に優劣がある、ということを僕たちは当たり前のように受け入れてきた。

国語・英語・数学の3教科。

これが教科ヒエラルキーのトップに君臨する。

俗に3教科と呼ばれる。

続いて歴史・地理・倫理・生物・物理・化学など社会・理科系。

3教科と合わせて5教科と呼ばれる。

そして、体育・音楽・美術・技術・家庭科などの実技系となる。

ちなみに現在の公立中学校のカリキュラムであれば1週間のうち音楽や美術の授業は1時間しかない。

 

このような現状があるのは、公教育というシステムが19世紀につくられたためだ。

19世紀は産業が急速に伸び、国々が覇権を争い戦争を繰り返した時代だ。

何よりも国力、つまり労働力の確保が教育に課せられた最大の使命だった。

ゆえに、即戦力が求められた。

必然的にお金、言語、科学、地理このような分野に注力した教育システムが考案された

 

ずばり言うが、教科ヒエラルキーは子供の可能性を潰してしまっている。

 

義務教育とは何が目的なのか?

国を強くすることだけが目的なのか?

音楽家になりたい中学生が週1時間の授業だけでその才能を花開かせられるわけがない。

書家も画家も、ダンサーもコックもデザイナーもすべて同じことがいえる。

将来、音楽家になりたいと願う中学生が、音楽の授業よりも生物や古文や歴史の授業にその何倍もの時間をかけなければならないとはどういうことなのだろうか?

その時間を彼ら彼女らはどのような思いで過ごすのだろう?

おそらく僕ならこう思う、「あ、やっぱり音楽家なんてなれないのかな、なっちゃいけないのかな」と。

もし仮に、毎日音楽の授業があったなら?そういう風に授業を選択できたなら?彼ら彼女らの夢はつながったかもしれない。

子供には好きなことをやらせてあげよう。

その方が世のため人のためなんだよ。

自分がこれだ!と思えるものができた時点でそこへ集中的に自分の時間や労力を投資させてあげられるような環境を作ってあげるべきだ。

子どもには早い時点で自分の人生に対する責任と決断の意識をもたせてあげないといけない。

でないと、いつまでたってもレールの上だけを進むロボットちゃんになってしまう。

教科間の優劣はなくそう。

自分に合った授業カリキュラムをデザインできるように公教育は変わるべき!

これが僕の持論だ。

 

僕たちは皆、才能ある天才として生まれた

 

 

上のプレゼンの中で最も印象的かつ強烈なメッセージ性をもつエピソードは、ジリアン・リンのサクセスストーリーだ。

「彼女は病気ではない。ダンサーです」という医師の言葉。

ここに教育の核心があるように思える。

少し大げさに言うと、幸せな人生を送る基本的な姿勢がその一言に集約されている気さえする。

そう、僕たちは生まれながらにして何者かであるはずなのだ。

才能は幸せへのパスポートだ。

それを使うように我々は生かされている。

それを正しく使った時、我々は最も満たされ、最も世界に貢献する。

才能には多種多様なものが存在する。目に見えないものもある。

時間をかけなければならないものもある。

誰かに気づいてもらわなければならないものもあるだろう。

ただ一つ言えることは、自分の才能は「嫌いなこと」「不快」なことの中には存在していないということだ。

その才能のありかを見つけることは、その人間が負った使命だと僕は思う。

ピカソは言った。

「子どもは生まれながらにして、皆アーティストだ」と。

僕たちは自分の才能を信じ、見つけ、活用するべきだ。

そのための努力は惜しんではいけない。また、妥協をしてはいけない。

 

プレゼンテーターのケン・ロビンソンは、

「地表を掘って石油を見つけ出すように、今の教育は、すべての子どもから、同じ資源を取りだそうとしている」

と述べている。

これこそが、現在の教育が抱える最も深刻な闇だ。

目の前にいる子どもにはどんな才能が秘められているか、きちんと見極めなければならない。

教室を眺めてみればいい。

そこには、ダンサーの卵、学者の卵、デザイナーの卵、アスリートの卵、ピアニストの卵、たくさんの才能が成熟の時を待っている。

 

彼ら彼女らは期待している。

自分の才能が大きく花開くことを。

また、予感している。

才能が一つの確固とした形となり世界を潤すことを。

そしてまた同時に恐れている。

自分の才能を信じない大人によって、自分の個性が殺されることを。

 

僕たちは個々に特有の才能を持ち合わせている。

才能を正しく捉え、伸ばすことで必ず活躍の場にたどりつく。

必ず世のために貢献できる。

教育による個人の画一化はここから先の時代に何も生み出さない。

画一化の先にあるのは、「幸せ」とは真逆の世界だと思う。

人には人の、自分には自分の大切な使命がある。

それを教えてくれるのは、自分の心。

しっかり心の声を聞こう。

大人が変わらないと、子どもは変われない。(^_-)-☆

 

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