どうも。ダイチです。
本日、「幸せ労働論」の第三弾です。
Contents
前回までの復習
前回までで、「時給・月給という“ものさし”捨てよう」、という話と、
「自分にとっての最小エネルギーで最大の成果や結果が得られる仕事をするべきだ」、という話をしました。
参考記事⇒⇒幸せ労働論① ~時給・月給の概念から脱出せよ~
参考記事⇒⇒幸せ労働論② ~エネルギー給という考え方~
そして、いまのところの最善の方法として、
自分の好きなこと、得意なことを仕事にする
というものに行き着いたわけです。
こうすることによって、労働にかかるエネルギーを最小化し、リターンを最大化しつつ、仕事以外のライフステージを充実させられる可能性が高まる、そう結論付けました。
でも、すみません、今日で一回、その結論を破壊させますwww
いや、よりよい人生、幸せに向けた意義ある破壊ですからご容赦ください。
さて、では大きすぎる問いを立てて今日の話を始めたいと思います。
そもそも、「給料をもらい続ける人生ってどうなの?」
「お金」と「幸せ」の関係とは?
いきなりですが、あなたは、たくさんお金があれば幸せになると思いますか?
どうですか?
今のことろ、世の賢人たちの答えはNO!です(笑)
「お金があるから、幸せになる」というように、〇〇だから△△になる、という二つの関係を因果関係といいます。
例えば、「トラフグの卵巣をそのまま食べる」、と「死ぬ」の間には因果関係があります。
トラフグの卵巣をそのまま食べると例外なくその人は死にます。
フグを食べたことがその人の死の原因になっています。
さて、今のところですが、どの心理学者、経済学者も「お金」と「幸せ」の間に因果関係があることを証明できていません。
たくさんの「お金」があれば、必ず幸せになる、とは言えないのです。
しかし、「お金」と「幸せ」の間に相関関係があることは、証明されています。
相関関係とは、一方の事象の変化にもう一方の事象がはっきりと影響を受ける関係性のことです。
有名な例では、「親の年収」と「その子供の学力」などが挙げられます。
親の年収が高いほど、子供の学力は高くなることがわかっています。
塾や習い事などの学習環境の差がそのまま子供の学力に影響を及ぼしているのです。
しかし、親の年収が高いから、子どもの学力が高いわけではありません。
そうなりやすいだけです。
年収の高い親の子ども全員の学力が高いわけではありませんし、経済的に苦しい家庭で塾に行かずに高い学力をもつ子どもはたくさんいます。
さて、「お金」と「幸せ」の間に相関関係があるということは、つまり、お金を持っている方が幸せになりやすい、ということです。
そしてまた同時に、お金を持っているからと言って、幸せになるとは限らないということです。
何を当たり前のことを言っているんだ!と思いました?
でもね、これが科学的な事実として証明されていると思うと、なんだか感動的じゃないですか?
何というか、「幸せ」というフワフワした妖精のような目に見えないものが、ちゃんとした研究の対象になり、科学的に議論されうるんだ!という感動を、僕は感じました。
人は、お金を持っているほど、幸せになりやすい、ということがわかりました。
そして、誰もが、幸せになりたい、と思っています。
ここからが本題です。
このページを見ている人の大半は、お金を「給料」としてもらうはずです。
ですから、今までの話を聞いて、こう思うかもしれません。
「あ、やっぱり世の中お金なのね、しっかり働いて給料上げなくちゃ!」と。
結論から言うと、この考えは、間違っています。
はっきり言ってナンセンスです。
僕は先ほど、お金を持っているほど、幸せになりやすいとは言いましたが、給料をもらうほど、幸せになりやすいとは言っていません。
ここに現代社会の誰もが陥る巧妙なトラップがあります。
給料の本質
「給料」というものと、先ほどから僕が言っている「お金」には根本的な違いがあります。
その違いを理解するためには、給料の本質を知る必要があります。
給料とは、基本的・根本的に労働の対価として支払われるものと思いがちです。
しかし、実はそうではないのです。
その性質は、むしろ異例です。
給料の最も確固たる性質は、
労働者の生活を担保し、翌月の労働力を確保するために支払われる、
というものです。
労働力を確保するためには、労働者に働いてもらうより他はありません。
そして、その労働者には長いこと勤めてもらわなければなりません。
人が変わるばかりしていると、教育費はかかるし、生産性は上がらないし、経営者にとってはいいことはありません。
つまり給料は、「あなたよく頑張ったね、これが褒美だ」といって支払われるものではなく、「これだけやれば、生活には困らんだろう?だから、翌月も同じように働くんだぞ」といって支払われるものなのです。
そして、ほとんどの場合、給料というのは、
その人の生活を過不足なく保障するだけの金額しか支払われません。
その人がその仕事を続けていけるだけの最低限度の生活資金、それが給料の本質なのです。
年齢によって、職種によって、給料に変動があるのは、その困難さや生産性によってではありません。
例えば、ストレスの多い仕事、肉体的にキツイ仕事の給料が高いのは、単に、そのダメージを回復させるためによりお金がかかるからです。
翌月の労働のため、ダメージを回復させるのに必要だと思われる金額が高いから、給料も高いのです。
また、年齢が上がったら給料が増えるのも、責任が増え、ストレスが増え、養う家族が増え、人脈が増え、ることによって一か月の生活に必要な最低金額が上昇したからなのです。
これが給料というものの本質的な考え方です。
もちろん、給料が労働の「対価」として支払われるという性質が全くないわけではありません。
しかし、労働の「対価」として、変動する給料の上げ幅下げ幅は、ごくわずかです。
ですから、給料というのは、本来、その仕事をしている人の平均的な生活をしている以上は、余るはずのないカツカツの生活資金です。
経営者は、あなたが貯蓄や投資や身の丈に合わない贅沢をするお金を給料には含めてはいません。
ここに、「お金」と「給料」というものの違いがあります。
実は、冒頭で話に出していた「幸せ」と相関関係にある「お金」とは、生活資金ではなく、自分で自由にできるお金のことです。
「高給料」と「幸せ」の間の相関関係は、ないことはないですが、「自由なお金」と対比すると、その強度はずーーーっと弱いです。
ここまでの話を整理すると、以下の結論に行き着きます。
まとめ
・「自由になるお金」と「幸せ」には、相関関係がある。
・給料の本質を考えると、「幸せ」を求めて給料を上げようとするのはとても効率が悪い。
・幸せになるためには、給料ではなく、「自由になるお金」を増やすべきである。
冒頭の話に戻ります。
そもそも、「給料をもらい続ける人生ってどうなの?」
という話です。
「給料」をもらい続ける人生が悪いわけではありません。
もちろんそうです。
好きなことを仕事にして、自分のエネルギー給を高める、それが素晴らしいことに変わりはありません。
それで十分だという考えも、僕自身とても納得がいきます。
しかし、「給料」よりも「自由になるお金」の方が価値は高く、そちらの方がより幸せをもたらすことが分かっています。
そして、「給料」というものが、「その人がその仕事を続けていけるだけの最低限度の生活資金である」という本質を持つ以上、「給料」で生活をする限り、「自由になるお金」はそうそう増えるものではありません。
「自由になるお金」を増やして、今よりもっと「幸せ」になりたい、と思うのであれば、冒頭の疑問に対する答えは、「満足できない」というものになりそうです。
そこで、次回は、「幸せ労働論④ ~本当に幸せな働き方~」を書きます。
お楽しみに!
今日はこの辺で(^_-)-☆
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