幸せ労働論① ~時給・月給の概念から脱出せよ~

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どうも。お金は好きだが、労働は苦手なダイチです。

最近こういう書籍を読みまして。

 

 

この本から様々なヒントを得て、自分なりに「労働」について考えてみました。

題して、

 

Contents

「幸せ労働論」です。

 

シリーズ化するつもりなのでごひいきにw

さて第一弾は、

 

時給・月給の概念から脱出せよ、です

 

時給・月給という愚かな考え方

 

労働

 

例えば、新しく職に就くとき、おそらく多くの人が最も気にする情報は、「労働に対してどれほどの見返りがあるか」ということだと思います。

多くの場合それは、時給月給というもので表されます。

これは、「時間」というものがあらゆる人にとって平等であり、また、価値のあるものだ、と考えられているからです。

労働に対する見返りを測る上で、最も説得力のある”ものさし”が「時間」だということですね。

一見すると、以上の理由から、時給・月給という情報はこれ以上ないほど正確に「労働の見返り」を教えてくれているように感じます。

ですが、このブログを読んでくださったみなさんには、今後この時給・月給といったものを重要視しないでいただきたいです。

時給・月給という概念は、確実に時代遅れになっていきます。

といういか、もう一部の人の間ではなっています。

理由は後に述べますが、時給や月給ではなく、成功報酬型の企業がメインになっていきます。

断っておきますが、僕が言いたいのは、決して「労働の見返り」を重要視するな、ということではありません。

むしろ、そこが一番大切だとも言いたい。

また、もらえるお金は少なくてもやりがいを求めよ、とか、人の役に立つことを、とか、勤務地を優先せよ、とかいうつもりもありません。

「労働の見返り」を職を決めるときの一番の判断材料にするべきだ、ということもはっきり言っておきます。

あくまでも、その「労働の見返り」を測る手段として「時給・月給」という情報を用いるべきではない、ということが言いたいのです。

 

ではなぜ、労働を考える上で「時間」という”ものさし”を使うべきではないのでしょうか?

 

時間の本質は流動・不定である

 

鴨長明は、『方丈記』の中で、揺蕩う川のあぶくと時間のはかなさを重ね合わせています。

アインシュタインは相対性理論で、時間というものは一定ではないことを証明しました。

(半日の恋人のデートと1分間石油ストーブの上に手をのせる時間とを比較して説明されることの多いあの理論です)

時間というものは確実性の高い概念のようで、その本質はまるで逆のものです。

「時給・月給」という考え方は、「時間」というものが一定であり不変であることを前提とした場合、公平性が保証されますが、それは僕らにとっては幻想でしかないのです。

時間

時間の本質が流動不定である例をいくつか示しましょう。

 

①同じ1時間でも価値は異なる

 

例えば、深夜の2時~3時の1時間と午後2時~3時の1時間を比べたとします。

確かに長さは同じですが、その1時間の持つ意味はずいぶんと違います。

皆が寝静まり、公共交通機関はおろかコンビニ以外のお店は軒並み営業しておらず、太古の遺伝子のせいで閉じるまぶたをこすりこすり活動しなければならない1時間。

もう一方は、あらゆる機関・お店を活用でき、人の協力も得られ、エネルギッシュに活動できる1時間です。

ね?全然違うでしょ?同じなのは長さだけです。

 

②その人にとっての1時間はあの人にとっての1時間ではない

 

なんか急に哲学っぽくなりましたが、要するに同じ1時間と言っても、その時間の持ち主によって1時間の重みっていうのは全く違うということです。

家族の有無、年齢、性別などなどあらゆる要素でその人にとっての1時間の重みは全く変わるのです。

時間の長さは超客観的なものですが、そこに中身を入れ込んでしまえば、時間は限りなく主観的な概念となるのです。

 

③時の流れには、絶対時間体感時間という概念がある

 

結局はここに集約されると思うのですが、フルマラソンを走る4時間と寝て過ごす8時間だったらどっちの方が短く感じますかね?

言わずもがなです。

僕ら人間は主観的な生き物なので砂時計で測るような絶対的な時間の流れの中には生きていないんですね。

これをもっと意識しておくべきです。

僕らが重要視しなければならないのは体感時間なんですよ。

体感時間として、特に挙げたい例は、フロー状態というやつですね。

ゾーンに入る、ともいいますが。

時空や自我の存在を忘れた究極の集中状態のことを指します。

参照記事⇒⇒本当に幸せな人生とは? ~ポジティブ心理学の答え~

 

この状態になると、時間という概念は本当にないのと同じです。

僕は、趣味で将棋をしますが、フロー状態に入ると、気付けば3~4時間が経っているいるなんてことはザラです。

極端な話、毎日の労働においてフローに入ることができれば、最強だと思いません?

今、そういう風に働いている人が増えてきてるんですよ。

そしてそれが確実に主流になってきます。

まぁ、詳しい話は「幸せ労働論②」で書きたいと思っています。

 

まとめ

 

とまぁ、こういった具合に、「時間」なんていうものはだいたいが、ものさしに使われるべきようなシロモノではないということだったんですね。

「時間」をものさしに対価を指し示すという手法は、そもそも「時間」を絶対的・客観的な概念として取り扱っている点において破綻しているんです。

だから、馬鹿らしいと思いますね。「時給・月給」だなんていう概念は。

だまされちゃいけません。

 

じゃあ、幸せな労働にとって大切な要素は何なの?思った方は次の記事へどうぞ~

関連記事⇒⇒幸せ労働論②~エネルギー給という考え方~

 

 

 

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